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蒋介石(1887―1975)は中華民国史上、最も長く在位した国家元首であり、中華民国憲法施行後、初代から第5代までの総統を務めました。蒋介石の生涯は、中華民国の発展や歴史と密接に関連しており、今回の展示では、蒋介石が関与した革命、東征、北伐、抗日戦争、戦後の台湾統治、国際的な外交折衝上の関連文物、档案書類、写真などの資料の展示が、中華民国発展史の理解の一助となればと思います。



青年期の留学と革命への参画

蒋介石は1887年、浙江省奉化県渓口鎮(現在の寧波市の西南)で生まれました。9歳で父親を亡くし、少年期は母親と母方の祖母と暮らしました。1908年から1910年まで、東京振武学校に学びました。当時は革命への熱意が留学生の間にみなぎり、入学した最初の年に孫文が総理を務める「中国同盟会」に加わり、革命に身を投じました。1911年、武昌起義が成功し、1912年1月1日に中華民国南京臨時政府が成立。孫文が初代中華民国臨時大総統に就任しました。2月、孫文は大総統を辞し、3月に袁世凱が就任しました。袁は権限を徐々に拡大し不法行為に関与したため、1913年、孫文は袁を倒そうと「第二革命」を起こしましたが、失敗に終わりました。袁は国会を解散するとともに「中華民国臨時約法」を廃止しました。孫文は日本に亡命し、1914年に新たに「中華革命党」を結成(1919年に「中国国民党」に改組)、「第三革命」を計画しました。1913年、蒋介石は「中華革命党」結成準備段階で入党を宣言し、打倒袁世凱に向けて積極的に行動しました。1915年12月、袁世凱は帝政の実施を宣言し、国号を「中華帝国」としたことで、中華民国の法的な繋がりが断ち切られました。袁世凱が皇帝を称すると、反対運動が起きました。蔡鍔が率いる雲南護国軍がまず蜂起し、中華革命党もこれに呼応しました。全国で怒りが渦巻くなか、袁はわずか83日で帝政を廃止せざるを得なくなり、1916年6月6日に死去しました。


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    • 1908年、蒋介石、張群、楊傑、王柏齢、馬暁軍、陳星枢ら振武学校同窓生の集合写真。(国史館提供)

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    • 1911年、蒋介石が辛亥革命に加わったときの写真。(国史館提供)




黄埔軍官学校の開設、国民革命軍の北伐、北伐鎮定と「訓政時期約法」の制定

袁世凱の死後、北洋軍閥を政治の中心とする時代が形成されました。その特徴は軍閥の割拠と戦乱でした。段祺瑞は、愛新覚羅溥儀を復位させた張勲を打ち破った後、国会、約法の回復に同意しませんでした。孫文は中華民国の統治権力の正当性を守るため、1917年、広州で中華民国軍政府を成立させ、護法運動を率いました。1922年、陳炯明が反乱を起こしたため、孫文は永豊艦に退避しました。蒋介石は広東に急行してともに作戦指揮にあたり、孫文に近侍して危機を脱出しました。孫文は、革命失敗の原因は、革命党に軍事力がないからと考え、1924年、蒋介石に対して黄埔陸軍軍官学校の開設を準備し、校長として革命軍を養成し、北伐統一の拠り所とするよう指示しました。ここにおいて、蒋介石は政界における重要な地位を築くこととなりました。19267月、蒋介石は国民革命軍総司令として北伐の成功を誓いました。1928年、北伐は完了し、形式的な国家統一が達成されました。蒋介石は国民政府主席に就任し、国全体が訓政時期に入りました。19315月、国民会議は「中華民国訓政時期約法」を制定しました。これは中華民国が立憲主義に先立つ訓政時期に発布した最高法規であり、同年61日、国民政府は施行を公布し、「軍政、訓政、憲政」という国家統治の形を実践に移しました。


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    • 民国13年(1924)6月16日、黄埔陸軍軍官学校が正式に開校しました。式典で、孫文は学校創設の目的は「革命軍を創設し、中国の危機を救う」にあると述べました。(国史館提供)

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    • 民国17年(1928)、北伐が完了し、10月10日、蒋介石は国民政府主席として閲兵を行った。(国史館提供)



「満州事変」と「西安事件」

1931年9月18、日本は中国の混乱に乗じて「満州事変」を起こし、東三省(奉天省、吉林省、黒竜江省)は日本の勢力範囲に落ちました。全国で抗日の波が巻き起こり、内戦を停止し、ともに日本に抵抗するよう求める声が起きました。国民政府の「安内攘外(共産軍を掃討したあと日本に当たる)」策は軍民の合意が得られず、1936年12月には「西安事件」が起き、蒋介石は下野しました。「西安事件」は国共合作を促進するカギとなり、共産党と共同で抗日に当たるよう、国民政府に政策の修正を促しました。1937年から1939年までは国共合作のピーク期に当たり、抗日戦争の初期に限っては国共双方の協力はおおむねうまくいきましたが、後に中国共産党が次第に勢力を拡大すると、双方は衝突するようになりました。


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    • 満州事変(1931年9月18日)の後、中央には特別外交委員会が設立され、外交問題の処理に当たるとともに、国際連盟に国土への侵略行為を訴えました。(国史館提供)

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    • 民国20年(1931)9月、満州事変が起き、北京、上海、南京の各大学から学生が相次いで南京へ請願に向かい、抗日救国を求めました。当時、国民政府主席だった蒋介石は学生の代表に接見しました。(国史館提供)

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    • 民国25年(1936)12月12日、張学良と楊虎城が西安事件を起こしました。蒋介石は西安に10日余り軟禁されました。蒋夫人は西安を訪れ、何度も折衝が繰り返された後、25日、張学良が自ら蒋介石夫妻を南京に送り届けました。12月26日、南京に到着。国民政府主席の林森ら政府職員が飛行場で出迎えました。(国史館提供)



抗日戦争と講和条約

1937年7月7日、日本軍は河北省宛平県の盧溝橋での日本兵失踪事件を引き金とし、全面的な中国侵略行為を始めました。抗戦初期の中国は、国力、軍事力ともに日本に遠く及ばず、4年間、孤軍奮闘していました。そこへ、1941年12月に日本が真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争が勃発しました。1942年1月1日、米、英、中、ソなど26カ国がワシントンで連合国共同宣言に署名し、同盟国となりました。中華民国は日本に宣戦布告し、英米など同盟国と共同作戦を行い、蒋介石は連合国中国戦区最高統帥に任じられました。1943年1月11日、中華民国は、英米とあらためて「新平等条約」を締結し、清代に締結した多数の不平等条約を撤廃、治外法権を終結させました。

1943年11月22日から26日まで、蒋介石は、米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相とエジプトの首都、カイロで会談し、抗日戦略と戦後処理について話し合いました。会談後に発表されたプレスリリースは「カイロ宣言」と通称され、台湾と澎湖諸島を含む、日本が中国から得た領土は、中華民国に返還することが盛り込まれました。

1945年8月6日、米国は広島に、そして9日には長崎に原爆を投下。8月15日、日本は無条件降伏しました。蒋介石は重慶からラジオで抗日戦勝利を宣言し、戦後の世界平和のために、日本に対し「「旧悪を念(おも)わず」と「人に善を為す」とし、中国にいた日本人と戦争捕虜を安全に引き揚げさせると宣言しました。日本のニュースメディアはこれを「以徳報怨(徳を以って怨みに報いよ)」と読み解きました。抗日戦勝利後、中華民国は国連の設立メンバーとして安全保障理事会の常任理事国となりました。これは蒋介石にとって外交上重要な成果でした。

1951年9月8日、戦勝国と日本はサンフランシスコで講和会議を開き、「サンフランシスコ講和条約」に署名しました。条約において、日本は台湾と澎湖群島を放棄するとしていますが、主権をどの国に譲渡するかは明示していません。これは台湾地位未定論の重要な歴史的根拠となっています。中華民国政府はサンフランシスコ講和会議に出席できず、米国の斡旋により「サンフランシスコ講和条約」26条の規程に基づき、日本と別途講和条約を締結しました。1952年4月28日、中華民国代表の葉公超と日本代表の河田烈は、台北で「日本国と中華民国との間の平和条約」(日華条約)に調印しました。


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    • 1943年11月22日から25日まで、蒋介石、米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相が、エジプトの首都、カイロで会談を行い、蒋介石夫人も随行しました。(国史館提供)

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    • 1945年9月9日午前9時、中国戦区における日本軍降伏調印式が南京中央軍官学校講堂で行われ、中国派遣軍総参謀長、小林浅三郎が連合国中国戦区中国陸軍総司令の何応欽将軍に降伏文書を手渡しました。(国史館提供)

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    • 1952年4月28日、中華民国と日本は台北賓館において「日華平和条約」に調印しました。4月30日、蒋介石は日本側代表の河田烈らと面談し、「中国はサンフランシスコ講和条約に参加することはできなかったが、日本と単独で条約を結ぶことは、むしろ意義がある」と述べました。(国史館提供)



国民政府の台湾接収と戦後初期の台湾統治

1945年8月15日、日本が無条件降伏し、中華民国国民政府は連合国最高司令官指令の一般命令第一号を根拠に台湾を接收し、「台湾省行政長官公署」を設置して統治を始めました。8月29日、国民政府は陳儀を台湾省行政長官に任命し、9月1日には「台湾省行政長官公署組織大綱」を公布、9月7日には陳儀に台湾省警備総司令の兼任を命じました。国民政府による台湾接收後の政治体制は、こうして定まりました。行政長官は行政と軍事の権限を一身に集め、特殊な統治体制を形成し、施政上の抑制均衡がほとんど失われていました。陳儀が台湾を統治していた時期は不当な施政が続き、政府の役人はたびたび不正を働き、中央政府から派遣された軍隊は軍紀が乱れていたことから、台湾の人たちの間に不満が広がっていきました。

1946年、蒋介石は台湾を視察しましたが、短い日程のため、台湾の人びとの心の声は体感できませんでした。蒋介石は10月26日、台湾は未だ共産分子の浸透は見られず、汚れのない土地であり、今後、積極的に建設に取り組み、模範的な省とすべきだと記しています。当時の時代背景の下、政府は依然として国共内戦に囚われており、積極的に台湾の人びとの心に沿うことはできませんでした。

1947年、ヤミたばこの取り締まりに端を発した「二・二八事件」が発生しました。蒋介石は、部隊を台湾に派遣し鎮圧を命じました。蒋は報復をしてはならないとしましたが、台湾社会が秩序を回復した後も、国民政府の軍隊はむやみに逮捕や鎮圧を繰り返しました。続いて行われた武力鎮圧や粛清においても、多くのエリートや無垢の人びとが死傷しましたが、関係者の責任は追及されませんでした。事件が一段落した後、国民政府は陳儀を中央に呼び戻し、制度改革後の初代台湾省政府主席として魏道明が派遣されました。これが二・二八事件後に行われた限定的な政治改革でした。


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    • 1945年8月31日、蒋介石は文官処を通して「臺灣省行政長官公署組織大綱」を命令しました。(国史館提供)

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    • 1946年10月21日、蒋介石は初めて台湾を訪れ、台湾光復周年記念会に出席しました。蒋の日記には「台湾には共産ゲリラの細胞は見られず、汚れのない土地と呼ぶことができる。丁寧に建設を行い、模範省とすべきである。このたびの台湾訪問は、政治心理上、台湾の民衆に対する影響は東北部より必ずや高く、非常に満足である」と記されています。当時、台湾の人びとは政府による不当な執政に強烈な不満を持っていたのですが、それを蒋介石はまったく感じ取っていませんでした。(国史館提供)



『中華民国憲法』の公布と中華民国憲法施行後初代の総統に就任

蒋介石は、政府が憲法を制定する過程でカギとなる役割を果たし、現行の中華民国憲法を、近代憲法の原則の方向に調整するのに、非常に大きな影響を与えました。1946年11月28日、蒋介石は制憲国民大会に中華民国憲法草案を提出しました。その際「本日、国民政府が提出した憲法草案(政治協商会議憲法草案のこと)について、賛成であり、擁護する。五五憲草は、現在適用されないと考える」と述べています。これは、蒋介石が中国国民党の一党による憲法制定を避けるため、野党に向けて示した政治的コミットメントです。12月25日、制憲国民大会は南京において中華民国憲法の制定を可決しました。蒋介石は国民政府を代表して署名し、1947年1月1日に憲法を公布、同年12月25日に施行されました。1948年、蒋介石は中華民国憲法施行後の初代総統に選ばれました。


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    • 1946年12月、国民政府主席の蒋介石は、憲法公布命令に署名しました。(国史館提供)

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    • 1948510日、台湾省参議員の訪問団が南京を訪れ、中華民国憲法施行後の初代総統となった蒋介石に「挙国仰止」と書かれた旗を贈って敬意を表しました。蒋介石の右は台湾省参議員の黄純青、翁鈐。(国史館提供)

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    • 1948520日、蒋介石は南京で中華民国憲法施行後の初代総統に就任した。長袍と馬褂を着用し、采玉大勲章を佩用している。夫人は旗袍姿で、一等大綬采玉勲章を佩用している。(国史館提供)

政府の台湾撤退と台湾統治

中国共産党は抗日戦争の間に急速に勢力を増強し、国共間の軍事衝突は日に日に激しくなりました。1945年12月、米国トルーマン大統領はマーシャルを特使として中国に派遣し、国共間の緊張緩和に向けて調停に乗り出しました。1年間の折衝の末、調停は失敗に終わり、1947年1月、マーシャルは帰国しました。2月、全面的な国共内戦が勃発しました。国共内戦後期において、国民政府軍は、遼瀋、徐蚌、平津という三大戦役に敗北し、戦力と士気は壊滅的な打撃を受けました。内外双方からの圧力で苦境に陥った蒋介石は、1949年1月21日に総統を辞任し、副総統の李宗仁が総統代行として中国共産党との和平交渉に臨みました。

蒋は下野前夜「巻き直しを図り、革命の基礎の再構築」を計画。台湾はそのなかの重要な反共基地のひとつとなりました。そこでまず、中央銀行総裁の俞鴻鈞に指示して金銀を上海から台北や廈門に移送させ、次に、党と政府の主要な人事を行い、陳誠を台湾省政府主席に(後に台湾省警備総司令を兼務)、蒋経国を中国国民党台湾省党部主任委員に任命し、傅斯年を国立台湾大学学長に任じました。蒋は下野し故郷に戻っている間においても、なお国民党総裁として実権を握り、軍政の方針を指揮しました。

国共の交渉は決裂し、戦況は不利となり、中央政府は転進を続けました。11月、総統代行の李宗仁は職を捨てて出国しました。1949年12月、国民政府は台湾に撤退。1950年3月1日、蒋は台北において「執務を再開」し、中華民国総統の職権行使の継続を宣言しました。



台湾撤退後の外交

「執務再開」後、蒋介石が国防、外交のうえで直面した最大の問題は、海外からの援助を得て台湾を強固にすることと、中華民国政府が中国を代表する唯一の正当な地位にあることを維持することでした。1950年、朝鮮戦争が勃発し、国際情勢に転機がおとずれました。米国は第七艦隊を台湾海峽に派遣し、台湾が中国共産党の軍事的な脅威にさらされないよう積極的に支援しました。1954年末、両国は「米華相互防衛条約」を締結しました。

この時期、中国共産党の軍隊は中国沿岸部にある中華民国軍の拠点に侵攻を繰り返していました。1954〜1955年、第一次台湾海峡危機が起き、国軍は米軍の支援を受けながら大陳島から撤退しました。1958年、毛沢東は金門に対する攻撃を開始。よく知られている「金門砲戦」が起きました。米国の支援の下、中華民国は火砲の増強に加えて制空権を得、共産軍の攻勢を頓挫させ、最終的に台湾海峡を安全に防衛することに成功しました。冷戦期において、米国をはじめとする自由主義陣営国家は自由に中国に入国できなかったため、台湾は中国を理解・研究するための重要なチャネルの1つとなりました。

しかし、中華人民共和国による外交展開に伴い、中華民国をとりまく国際情勢はじわじわと厳しくなっていきました。1971年10月、国連で2758号決議案が採択され、中華人民共和国政府は中華民国政府に代わり、国連における中国代表権を獲得しました。これに続いて友好国からの国交断絶ドミノ現象が相次ぎ、中華民国の国際的な立場は日増しに厳しくなりました。


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    • 蒋介石=ダレス共同コミュニケ(1958年) 
       
      1958年、金門砲戦下の台湾海峡危機のなかで、米ダレス国務長官が訪台。蒋介石と会談し、10月23日、両国は共同コミュニケを発表しました。その中で、中華民国政府による武力を用いた「大陸反攻」について非常に重要な表明を行いました。それは「中華民国政府は、大陸の人民の自由を回復することがその神聖な使命と考えており、この使命が信じる基礎は中国人民の心を打ち立てることであり、この使命を達成する主要な手段は、孫文の三民主義を実行することであって武力に依るものではない」というものでした。公式文書でこのような「武力に依るものではない」との表現が使われたことは、各方面の注目を集めました。(国史館提供)

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    • 1960年6月18日から19日にかけて、米アイゼンハワー大統領が来台。蒋介石と共同コミュニケを発表し、両国はより強固に団結し、共産主義勢力に対して共同で防禦に当たることを強調しました。アイゼンハワー大統領が台湾を訪問した2日間、中国共産党人民解放軍は3度、金門を砲撃し、8万8000発余りの砲弾を打ち込みました。歴史上「六一九砲戦」と呼ばれています。(国史館提供)



経済建設

1949年、陳誠は台湾省主席に就任して間もなく、台湾の財政経済問題について、低く抑えられている台湾ドルの為替レートや中央政府が台湾で行った支出の台湾省による肩代わりなど不適切な政策が深刻なインフレを招いているとする根本的な問題に気づきました。1949年、新台湾ドルへの通貨制度改革が行われました。中央銀行が台湾銀行に返還するゴールド(台湾省による肩代わり分の償還)を準備金に充てるとともに、台湾と中国との間の為替関係を断ち切ることで、台湾における財政状況の悪化を緩和しました。しかし、経済状況が構造的な改善に至るには、1950年の朝鮮戦争勃発と米国の台湾への大規模な経済援助を待たなければなりませんでした。米国の経済援助を適切に運用するため、1953年、第1期経済建設計画が始まり、輸入関税の引き上げ、輸入制限、台湾の公営・民営企業による輸入品に代替する商品への支援、まず自給自足、それから輸出推進が行われました。その間、米国の助言を参考にし、租税優遇措置、「奨励投資条例」の実施、加工輸出地区の設置、投資の呼び込みと雇用機会の増加など、19項目の財務経済改革を推進しました。1972年までに計5期の経済建設計画を実施(1期4年間)。


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    • 1953年、西螺大橋が開通し、蒋介石と蒋経国は歩いて橋を渡りました。西螺大橋は、米国の経済援助を受け、1952年5月29日に整備を再開し、12月25日に竣工、翌1953年1月28日に正式に開通しました。(国史館提供)

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    • 蒋介石と蒋経国は1958年6月21日、横貫公路の工事現場を視察しました。中部横貫公路は1956年7月7日に起工し、米国の経済援助により、主要な経費と工程計画の提供を受けました。(国史館提供)



土地改革

1949年、中華民国政府は台湾へ撤退後、米国の経済援助を受け、経済建設と改革を進めました。三七五減租、公地放領、「耕者有其田(耕す者が農地を所有)」などの土地改革に関する一連の政策展開は、農業経済の改善に効果を上げました。その後、農業分野の資源を工業発展につなげることになりました。

「三七五減租」とは、小作農が地主に納める小作料を、年間収穫量の37.5%を超えてはならないと定めたものです。「耕者有其田(耕す者が農地を所有)」は、政府が徴収した民間の耕地を、土地を借りている小作農に払い下げるというものです。また、「公地放領」とは、公有の農地を小作農に払い下げたものです。この一連の施策の実施後、農村の生活環境は大幅に改善され、農業をめぐる権力構造は激変しました。そして、政府は「肥料換穀(肥料と穀物との現物交換)」政策を行い、農家が必要とする肥料などを調達しました。

一方、土地を失った地主については、政府は7割を債権で、3割を四大公営企業である台湾セメント、台湾紙業、台湾工鉱、台湾農林の株券によって補償しました。この一連の土地改革政策により、農業生産性の回復が促されました。その後、土地資本は工業生産へ投入され、1960年代半ば以降の台湾の工業が飛躍的に発展する基礎が築かれました。


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    • 1951年6月7日、「三七五減租条例」が公布され、地主と小作農との間の小作制度を規定しました。(総統府公報)

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    • 1972年、行政院長の蒋経国は「農村建設推進対策」を推進。農村部の簡易上水道整備と家屋の衛生改善、アスファルト舗装またはセメント道路、町村部の衛生所(保健所)などの整備を計画し、農村の生活環境改善を図りました。1974年に台湾省主席の謝東閔が台湾大学で農村建設促進の成果展を参観する様子。(国史館提供)



文化・教育


文化・教育分野では、蒋介石は台湾への撤退初期、台北に文教施設が不足していると感じ、民主主義的な文化建設を推進するため、歴史博物館、芸術教育館、科学教育館、中央図書館、教育資料館、教育ラジオ放送などの社会教育機構を有する「南海学園」の設置を計画するよう指示しました。そして、中国共産党が中国で文化大革命を発動したのに対抗するため、蒋介石は、古書の全面的な整理・印刷、西洋の名著の翻訳・紹介、「国民生活指針」や「国民礼儀規範」の策定など、中華文化復興運動を提唱。その影響は広範囲に及びました。

1960年代中期、台湾の社会や経済の発展に伴い、わずか6年の義務教育では不十分になりました。また、第二次世界大戦後、世界各国のほとんどが義務教育年限を延長していたため、国家の発展と国民全体の素養の向上を図るため、蒋介石は1967年の国家安全会議で、義務教育を9年とすることを決定し、1968年1月、「九年国民教育実施条例」を公布しました。9年間の国民教育は2段階に分けられました。6年制の国民学校は国民小学に、3年制の初級中学は国民中学にそれぞれ改称され、国民小学の卒業後は、入学試験を受けることなく、そのまま国民中学に進学できることとなりました。しかし、9年制の国民教育は最終決定から実施までわずか約1年しかなく、十分な時間がありませんでした。このため、校舎の整備や教員、教材が間に合わず、制度導入初期の教育の質に影響しました。とはいえ、9年制の国民義務教育の実施は、台湾の人びとの教育水準を向上させ、1970年代に台湾経済の成長を支える人的資源の基礎を築きました。


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    • 1968年1月27日、九年国民教育実施条例が公布・制定されました。(档案管理局提供)

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    • >1970年、9年制国民教育が実施された介寿国民中学で行われた自然科学の授業の様子。(档案管理局提供)



戒厳体制と白色テロ

国共が対峙し、時局が緊迫する時代背景のなか、台湾は権威主義体制を取り、憲法が保障する基本的人権は履行されませんでした。陳誠は1949年5月19日、「台湾省戒厳令」を発し、翌日から(臨時)戒厳を全面的に実施しました。後年、台湾社会は落ち着いたにもかかわらず、人びとの自由と人権は著しく侵害されました。長期にわたる戒厳時期には、冤罪やでっち上げが続発し、政治的な事件であっても反体制派の排除が行われ、数え切れないほどの犠牲者が出ました。これに反対する人たちは「共産党」、「スパイ」または「台湾独立をめざす反乱者」などと呼ばれ、情報当局で拷問を受けたり、処罰されたりしました。例えば、1955年、孫立人将軍は部下である郭廷亮のスパイ事件に巻き込まれ、33年間の長きにわたって軟禁されました。1960年に台湾警備総司令部は「武装反乱の嫌疑」で『自由中国』誌の発行人、雷震らを拘束し、1964年には、彭明敏、謝聡敏、魏廷朝の3人が「台湾自救運動宣言」を共に起草したことで逮捕されました。基本的人権と市民の政治的権利の追求のために、多くの人びとが体制の内外で戦ったことで、今日の民主主義と自由、法治が実現されました。


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    • 雷震及び月2回刊行の自由中国に関する調査研究 
      1960年10月8日付の「雷震及び月2回刊行の自由中国に関する調査研究事案」(部分、档案管理局提供) 



軍法案件を総統の査定に付し、軍法判決の量刑を重くする

1950年、蒋介石は「国防部軍法案件呈核標準」の公布を裁許し、軍事法廷における裁判の結果をすべて総統の「裁可」に付すものと規定しました。蒋介石は提出された公文書の量刑について直接指示を出すこともあり、不当に権限を拡大させた疑いがあります。1956年、「軍事審判法」が制定されました。条文には、総統は「判決を裁可する際には、判決が不当または法令違反であると認められる場合、差し戻して再審を行わせるものとし、原判決をいたずらに変更してはならない」と明確に示していますが、しかし実際には、どのように判決すべきかを蒋介石が指示し続けていました。研究者の統計によると、蒋介石が裁可に介入した結果、本来は死刑ではなかったものが、死刑に変更された人は259人に達しています。


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    • 軍法裁判に認められていた代理裁可の範囲 
      民国39年(1950)、蒋介石は「国防部軍法案件呈核標準」の公布・施行を裁許し、軍事法廷における裁判の結果は、すべて総統の「裁可」に付すものと規定された。(档案管理局提供) 

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    • 胡適は1953年1月16日に蒋介石と会談した際、蒋に「憲法は、総統は減刑と特赦の権限しか認めておらず、刑罰を重くする権限は無い。しかしながら、総統はたびたび刑を重くしており、これは明らかに憲法違反である」と直接進言しました。(遠流出版公司提供)

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    • 黄埔陸軍軍官学校出身の中将、徐会之は1950年、「政府転覆準備」の罪に問われ、蒋介石は懲役5年の原判決に対して「即銃殺すべし」との指示を出しました。(档案管理局提供)




蒋介石総統執務室展示ホール

蒋介石総統執務室展示ホールにある椅子、ソファ、本棚などの家具は、いずれも総統府の旧蒋介石総統執務室から運ばれたもので、旧執務室関連の装飾品も陳列されています。蒋介石の蝋人形の坐像は、著名な彫塑家の林健成氏の制作です。執務室は、当初は中正紀念堂の西側スペースに展示されていましたが、後に東側の常設展示ホールに移りました。2014年に設計を見直し、総統府の旧蒋介石総統執務室(現在は緑ホール)を実際に計測して、総統府の廊下、応接室、執務室を一体化し、2015年1月20日に改めて公開、展示されました。

国史館の映像档案資料によると、総統の執務用デスクの位置はよく変わり、また、背景には旗、書棚、蒋夫人の絵画、地図などが配置されていたことがわかります。そのほか、よく見られるのは花瓶、友人からの贈り物、彫刻、地球儀などです。

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